[紀要論文]

葛西俊治「身体心理療法」2009
〜イギリス通信〜

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舞踏ワークショップおよび舞踏ダンスメソド

1. イギリスでの舞踏と舞踏ワークショップ雑感 (11/29,2009追加)
・Oxfordと舞踏と
・舞踏50周年 ロンドン舞踏フェスティバル
・ロンドン 晩秋の早朝舞踏ワークショップ!
・オックスフォード・ブルックス大学 EJRC 舞踏ワークショップ

2. Barcelonaでの舞踏ワークショップ
3. Rotterdamでの舞踏ワークショップ



舞踏ワークショップおよび舞踏ダンスメソド

葛西の「舞踏ダンスメソド」とは、踊るための技術集ではなく、ダンスかどうかさえも不明な舞踏というパフォーミング・アーツのジャンルにおいて鍛えられた身体心理的アプローチを、筆者が自らの舞踏経験と精神科ディケアなどでのセッション、そして心理学からの学問的視点とを統合させて、20年かけてまとめ上げてきた「身体心理学的あるいは身体心理療法的アプローチ」です。
  1. イギリスでの舞踏と舞踏ワークショップ雑感

    • 研究発表的でやや公的なイベントに参加・出席するのは多いときでも月に数回程度ですが、最近はやはりミラーニューロン関係の話題が多くていまが旬のようです。それ以外はおおむね、研究室で論文を書きためたり読んだり訳したりしているか、あるいはロンドンのモーズレイ精神科病院に出かけたりなど、「舞踏ダンスメソド」を関心のある人に伝えるべく、いろいろな形式の「ワークショップ」を開いてもらって指導しに出かけるのか通常のパターンになっています。特に、夏にヨーロッパ・アーツセラピーズ・コンソーシアム(ECArTE)で発表して好評だったことが幸いして、セラピスト関係者からワークショップの打診があり少し嬉しい悲鳴というところです。このところ寒くなって来て、さらに体力がないこともあり出歩くのが少々シンドイのですが(^_^;。


    • Oxfordと舞踏と…

      Oxfordに「Cafe Reason」という舞踏グループがあって活動していると偶然知り7月あたりから行き始めました。イギリスで唯一の舞踏ダンスグループらしいです。ワークショップの指導ということもありますが、Oxford Brookes大学社会人類学科に所属しているPaolaという博士課程の院生がそのグループに所属し、舞踏を体験しつつ博士論文を執筆中だったのが驚きでした。
      社会人類学というの領域は知らなかったので、どういう観点で舞踏について博士論文を書いているのか…。そのあたりから興味津々でした。同学科の指導教官のDr.Mitchel先生はマシンガントークの英語でまくし立てる人ですが、日本語もかなり話し、後で書きますがEurope Japan Research Centre(EJRC)-欧日研究所を主催するなど、いわゆる文化人類学的な観点から日本企業の研究をしている専門家でした。
      社会人類学というのは、いわゆる土人とか原住民とかという差別的用語で呼ばれるような文化圏が急速に消滅しした後、「これまでのような文化人類学ではなく…これは社会人類学ではないだろうか」と発展を遂げて成立した学問領域のように見えます。Mitchel先生は,SONY等の日本企業が海外の現地人によって運営される中で,日本的経営文化がどのように変容・歪曲・修正・展開されるのか…といったあたりを研究していました。

      日本初の暗黒舞踏も、Butohと呼ばれて国際化したのが1990年代からで、現在では、各国にそれなりの舞踏公演と指導をするButoh performersがそれぞれの文化的歴史的地理的状況の中で活動しています。1980年代までの日本的舞踏はすでに国際化される中で,相対化されて今日に至っています。そのため、Butohの定義も極めて困難となり、その反動も含めて、日本のオリジナルの舞踏の要素を常に参照しつつ、ヨーロッパのButohは展開されているといえます。 Cafe Reasonの中心人物は二人の女性で,一人は京都で舞踏活動をしていた人でダンスセラピストの方です。現在は,二人の子供をつれて旦那さんとカンボジアと日本を四ヶ月間旅行して、子供達に海外を見聞させていて不在です。終端期の患者さんとダンスセラピーのセッションをもっているのですが、そういう話は私には少し強烈すぎてシンドイものがありました。もう一人の女性はマレーシアから来た人ですが、手術の前後とかで不調のためあまり会えていません。男性の中心人物である気持ちの優しい中年のポールは、そのまま黙って立っているだけでなんだか不思議な空間が生まれる感じの人です。
      こういう人たちのところにおおむね10名前後のメンバーがいて練習をして少なくとも二ヶ月に一度くらいは小さな舞踏の場をもっていて活動してます。

      舞踏ということに何を求めているのか…。それは様々ですが、全体的に言えばやはり「何かを探し求める場」というか、少なくとも振り付けられたそのままにロボットの様に動きを修得するのではない!というあたりに、何らかの意義を見つけているように見受けます。イタリア・シシリー島出身のPaolaも、舞踏ということが醸し出す文化・存在・パフォーミング・身体などなどの複合的な側面に強く惹かれているようですが、このあたりはまた後でまとめて書くことにします。

    • 舞踏50周年 ロンドン舞踏フェスティバル

      1959年、土方巽が「禁色」というホモセクシャルなテーマと,舞台上でニワトリを絞め殺す(そのように見えた)という問題作で暗黒舞踏をスタートさせたとされています。なお、この題名が三島由紀夫の小説と同名だったことから二人が急接近したという歴史的展開がありましたし。
      いずれにしても、舞踏については極めて展開が進んでいないイギリスでも50周年イベントが行われているのはなかなかに驚きでした。二人のイギリス人女性舞踏家が中心になってイベントを行っており、慶応大学の土方巽アーカイブの協力を得て提供されていたフィルムには、私も見たことのないものがあるなど意外にもロンドンで舞踏の認識を深めている状況にあります。また、ドイツのGoettingenを拠点に舞踏活動を繰り広げている舞踏家・遠藤公義が1992年に主催した舞踏イベント「MaMu」の貴重な映像をたっぷり見ることができたのも大きな収穫でした。

      全体的に言って、Butohは主にフランス、ドイツ、ポーランドでアート領域を中心にかなりの文化的影響を与えていますが、イギリスではまだまだこれから…という感じに見受けられます。ロンドンのGoldsmiths大学のアート関係の学生・院生でもあまり認識されていないようでしたし。

    • ロンドン 晩秋の早朝舞踏ワークショップ!

      たまたまOxfordでの舞踏ワークなどで知り合ったTiffという中国系のダンサーの女の子(香港から来ていたと後で知りました)が中心になって、ロンドンで早朝舞踏ワークショップが企画されてしました。朝の八時から11時頃まで、Ishilington Chinese Associationという建物のホールを格安で利用させてもらえるということがきっかけで、私のワークを打診していた熱心な人たちが参加することになり実施が決まってしまったのでした。

      私は朝の5時半に起きだして、真っ暗な中を白い息を吐き出しながら自転車で駅まで行くのです。駅はまだ空いておらず、自動販売機でお仕着せのチケットを買い、開放されているプラットフォームにでて寒さに震えながら列車を待ちます。早朝の通勤者と一緒に無言で列車に乗り込み、そのまま目をつぶり揺れること30分、ロンドンKings Cross駅に着き、Tubeに乗り換え,地下鉄を降りてから朝日の昇ってくる方向に徒歩15分で会場に着きます。8時スタートのワークですが,列車の時刻の関係で、私は7:15から7:30には着いていて、遅れてくるTiffを待ちます。

      板張り床は固く・冷たく、舞踏の流儀で最初に裸足になり、きちんと雑巾がけをしてからワークを始めます…。だいたい毎回7-8名はやってきます。一番熱心なのが、私が籍をおいているUniversity of HertfordshireのBen Robin教授…。自閉症児の指導としてロボットにミラーリングをさせながら…という例の教授です。かなり遠くに住んでいるので毎回必死にたどり着き、終わると同時に必死の形相で職場に戻ってきます。
      ポーランド紳士のPawelは、舞踏をメルロ・ポンティの現象学から捉えて博士論文を書きつつある人です。実は,彼は2009年に札幌の私のところに来て研究をするつもりでしたが,私の方がロンドン近郊に来るということで一番喜んだ人の一人でした。自転車用のピッタリした服を着込んで、かなりの遠方から自転車でやってきます。第三章のメルロ・ポンティの解説まで書いたので、これからが舞踏と現象学との関係…ということで正念場にさしかかっており、舞踏の稽古も人一番熱が入っていました。(後でエネルギーが尽きて倒れてしまうのですが…)

      その他はパフォーミング・アーツなどのダンス関係、アート関係、歌や演奏などの音楽関係など多種多様の参加者でしたが、毎回の身心訓練の中で新たな発見ができたようで、意外にも頑張って参加し続けてくれました。また,モダンダンスからコンテンポラリーダンスの道を歩いてきたダンサーの一人がたった一回で動きの質が変わってしまい驚愕していたこともありました。
      参加者の中に派手目の服装でしなやかな肢体の黒人女性がおりジャズシンガーとのことでしたが、なんと驚いたことに、舞踏の稽古の中にある極めて遅い速度で動き続ける…というレッスンがひどく得意であるということが分かり、本人も含めて本当に驚きました。「ずーっとゆっくりと、しかしギクシャクすることなく動き続ける」のがひどく得意なのです。本人は演劇の稽古をしたから…と言っていましたが、そういうことで身につくものではない非常に高度の身体心理的なコントロールでした。私も久しぶりにそういう人に出会いました。九州・福岡市にある「青龍會」に一人、彼女のように超スローモーションで動く凉子さんという舞踏家がいますが、それに匹敵する遅さと精度でした。
      なお、これほどの遅さが実現できるということは、それだけの精度で身心を関知をする能力が高いことも意味するので、身体心理療法的なアプローチには欠かせない能力の一つと,私は考えています。

      いずれにしても、単に踊るというパフォーミング・アーツということだけではなく、ダンスセラピーの固定的なアプローチではなく、身体心理療法的な内容と意識状態についてのアプローチを含む「舞踏ダンスメソド」を体験することを通じて、参加していた人がそれなりに何かに気づき変化していくのは,指導する側としても手応えがありました。
      東洋人的に目つきの悪い?!主催者の一人、Tiffは「一日に一回は、おなかから笑うようになった」と言います。確かに、目つきも少し優しく以前よりは近寄りやすい感じになっています。元々、柔らかい身体と運動能力の高さがありましたが、今回のワークで気持ちの中に何か安定してよりどころになるものを見つけたような雰囲気ではありました。

      レッスンが終わった後は、みんなニコニコとして、会館の一階がホームレスの人のための炊き出し所になっているので、いろいろな人と挨拶をしながら、ではまた…と分かれていきます。私は近くに住んでいるTiffのアパートに寄らせてもらい、その住人達と一緒にパンと紅茶程度のシンプルな朝ご飯をのんびり食べるのが嬉しい時間となっていました。

    • オックスフォード・ブルックス大学 EJRC 舞踏ワークショップ (11/25, 2009)

      社会人類学…というジャンルがあることを初めて知ったのは、オックスフォード・ブルックス大学社会人類学科に所属するPaolaさんが舞踏をテーマにした博士論文を書いているためでした。文化人類学ならば、例のKJ法を創始した川喜多二郎などそれなりに知識がありましたが「社会人類学って何?!」。また、そうしたジャンルで博士論文として舞踏をテーマにしているのはなぜか? それ自体、興味をそそることでした。Paolaとの舞踏についての議論や、Oxfordの舞踏グルーブでのワークショップなどの交流を通じて、EJRCの文化交流活動の一端としての講演を依頼されました。(*イギリスでは文化人類学が社会人類学と呼ばれているようです。)
      11月25日に同大学にて2時間程度の舞踏ワークショップと、それに続いて舞踏の切り口から眺めた日本文化論について講演を行いました。EJRCとは欧日研究センター(Europe Japan Research Centre)という活動組織で、同大学のセジウィック先生と日本語教育を担当している穴井先生がいろいろと準備に手を尽くしてくれました。

      タイトル "Butoh dance: A 'Non-egocentric' Body-Mind Approach in Japanese Culture"
           「舞踏ダンス ― 日本文化における'自我中心的ではない'身心アプローチ」

      同大学のセジウィック博士(Dr.Mitchell Sedgwick)は、SONYなどの日本企業の海外支店が非日本人のスタッフによって運営される中でどのように文化的軋轢や変移が起こるかなどを研究しており、日本語をかなり話せる人でした。ただし日本語も英語のすさまじい早さなので??ということも多々ありましたが。社会人類学の私の個人的な理解は、かつての文化人類学がいわゆる「原住民」なり「土人」なりの差別的用語で把握されていた19世紀-20世紀の時代を経て、そういう用語で語られる人々が急速に減少したため、「部族」や「原住民」の文化…というくくり方での研究が困難になったことが背景にあると考えています。その分、地球規模で人類が文化的に急速に接近する中で様々な文化的相違とそれに伴う軋轢や同化や文化的派生が身近になってきたため、それを扱うための枠組みとして「社会人類学」という展開を見たのだと考えています。全くの推測ですけれど。

      Paolaとの舞踏に関する議論は、博士論文執筆という高く深いレベルで現在進行形のことなので詳しくふれませんが、イタリアのシシリー島出身という彼女がなぜ舞踏だったのか…。ロンドンのアート系の大学として著名なゴールドスミス大学を出て、社会人類学科があるオックスフォード・ブルックス大学の博士課程にやってきたのは、セジウィック先生という専門家がいたからですが、そういう進路の選び方にしても、やはりなぜ舞踏なのか…。
      12/8、ロンドン・ゴールドスミス大学で自主企画として行われた舞踏ワークショップに参加したPaolaさんと話す中で、その理由が非常にはっきりしてきました。その内容は実はなぜ私が舞踏なのか…という私自身の理由とも深く関わるものなので、この点は後にまとめて明確にしていきたいと思います。ここではっきりと言えることは、私にしても彼女にしても「舞踏」として展開された領域の中に、本人の存在の基底に関わる決定的な要素があったから、とだけ書いておきます。
      なお、EJRCでの講演内容はPaolaさんよりも、ゴールドスミス大学の博士課程でフッサールの現象学的観点から舞踏について博士論文執筆中のPawel氏が非常に関心を示した内容でした。これについてもまた別にあらためて書くことにします。

      行きはいつものようにロンドンのパディントン駅から列車で向かったのですが、急行が運行停止になりやれやれでした。帰りの列車には,今度はなんと二人組の男が大きなシェパードを連れて乗り込んできたので、あちこちに鼻先を出すシェパードの迫力と強烈な臭いにやられて座席を移る人たちが続出…。シェパードや自転車が乗り込んでくるドイツの地下鉄を思い出していました。文化の違いということですが…(^_^;。
  1. Barcelonaでの舞踏ワークショップ (10/4-12,2009)

    • スペイン・バルセロナでの舞踏ワークショップは一年以上前から打診を受けていたもので、たまたま2009年度に私がイギリス在住となったという流れがありました。スペインには一度、バスク地方のBilbaoに呼ばれて舞踏ワークショップを行った経緯があり、そうした流れの中で打診を受けていました。
      私としては、できれば長い時間数か日数をかけて舞踏を指導する中でどのよう変化が起きるのかを見たいという関心があり、毎日少なくとも、三時間びっしり五日間連続して訓練を行う形式にこだわり実施することができました。一般に舞踏イベント主催者側は舞踏公演やライブなどのパフォーマンスを重視しますが、昨今の傾向としては、踊りそのものよりも、舞踏についての解説およびワークショップ指導に力点をおきつつあります。
      これは21世紀に入り国際化が進んでいるButohは,東洋のエキゾチックな踊り…という30-40年前の当初の関心からは随分と異なり、自分たちの文化・風土・宗教…といった背景の中で、どのように新たなButohを展開していくか…という問題意識へと変わってきているためでもあります。このあたりは実に,社会人類学的なテーマとなり得るわけですが…。

      他にも書きましたが、夏にロンドンで開かれたECArTE会議、ヨーロッパ・アーツスセラピーズ・コンソーシアムに参加していたダンスセラピストたちが,この機会にと参加してくれたので、スペインでのセラピスト達の実情を逆に知る機会にもなりました。参加者は連日20-25名程度と,一人で指導できる限界に近い人数となりました。

      ドイツ人でバルセロナの大学他に勤めているEvaさん、アートセラピスト(MA)・精神分析的心理療法士(MA)・人類学者という変わり種で毎朝、バルセロナの海に飛び込んで泳ぐという堂々たる才女からはすでに論文を送られていて、これをめぐって随分と議論をすることになりました。おおむね,ダンスセラピスト以外のドラマセラピスト、アートセラピスト,ミュージックセラピストは身体的な訓練をあまり行っていないので,舞踏の身心訓練そのものはEvaさんはタジタジだったようですが、それ以外ではかなりの洞察力と鋭い指摘をしてきました。(以下の論文は忘れないための私のメモ書きです。)
      Eva Marxen, MA, MA, DEA a,b)
      a)Art School La Massana, UAB, C/Hospita, SG, 08001 Barcelona, Spain
      b)MACBA, Museum of Contemporary Art, Barcelona, Spain

      "Therapeutic thinking in contemporary art Or psychotherapy in the arts" The Arts in Psychotherapy 36(2009) 131-139
      Keywrds: Contemporary art, Social interventions, Therapy, Museum, Art as political and social tool

      なお、日本では舞踏と政治的な立場には関係がないとされていて,私自身も土方巽は純粋にアーティストだったと考えていますが、海外ではポリティカルであることが非常に大きな意味をもっているため、Butohも何らかのポリティカルな立場や考え方と結びつけて考えられています。
      生半可な「心理療法」といったものが,政治的にどれほど無知であるかを強烈に指摘することになる医療人類学などの立場に立たなくとも、心理療法や精神医学によって「異常」とされ治療対象とされることは、客観的な事実である以上に「社会的にそのように扱われる」という意味で社会的だし社会学的だし,結果的に政治的な意味合いが常に関わっています。このあたりはフーコーの『監獄の誕生』などの著作でも明確に描き出されていることです。 例えば、ロンドンのモーズレイ病院でも、なぜ精神科閉鎖女性病棟の住人は黒人が目立って多いのか…など、どう考えても文化的・社会的・社会学的そして政治的な意味合いを考えざるを得ない状況があります。

      このあたりに対して強烈な視線を持つEvaさんには,私は当初ほぼ全面的に論破されてしまい、久しぶりに強烈な戦闘意欲が沸いてきました。10月といっても気温は30度にもなり、ヨーロッパやロシアからはまだ夏の日差しを浴びに観光客が一日に一万人程度もやってきては、砂浜でのんびり寝そべっていますが、私は舞踏ワークショップに集中していたことと、Evaさんとの議論を展開するために,全く泳ぐどころではないという悲しい事態に至りました。ああ…。

      そういえば…私がまだ大学の研究助手の頃に「行動科学科」という総合科学科が結成され、社会学・人類学・統計・数学・心理学・生態学などの助手達が日々より集まっては議論していた時代を思い出していました。その中で理論的にも実践的にも最低だったのが心理学関係の人間で、したがってありとあらゆる議論について、私が最弱の存在だったのでした。心理学はそれなりに深いのですが、思想的には欧米の実証主義的な精神の中にあり、言ってみればかなり19世紀から20世紀中盤の考え方を基準にして学問的蓄積を遂げてきたものであって、思想的には遅れているところが多々あると感じています。

      さて、セラピーということを人類学的な鋭い視点で切り裂きながら、アートというアプローチがどのように、実際の出来事と切り結んでいくのか…という観点で書かれたEvaさんの論文には、身体心理学的実践を積んできた私から見ると、それなりにアレー?!という所もあったため、そこから互いの議論が白熱するということになったのでした。Butohということもパフォーミング・アーツの一形式として、どのように個人・社会・治療・文化…と渡り行ってくのか、あるいは切り結んでいくのか…。このあたりはEvaさんから突きつけられた大きな課題となって今に至っています。

      政治的なことの意義が日本ではかなり無視されている…というか、札幌という支店経済の中心地、北海道という植民地的外地で生まれ育ってきた私は、東京に居住する人たちほどの近さを日本政治や日本文化というものに感じていません。ある意味で、私自身が根底からポリティカルな関心を抜き取られた存在のようでもあり、かなりの程度クレオーレ(比喩的な意味で「混血」あるいは根無し的存在を意味する)であることは確かであり、そうだからこそ、何かを成し遂げる方途として舞踏を見いだした…という分析もできそうです。

      *ついでなので、「生活者による占拠ビル」について
      ワークショップ参加者の一人でフランス系のダンサーに連れられて、バルセロナ市内の不法占拠ビルに何カ所か行ってきました。放置され誰も住んでいない街中のビルを不法占拠して住み始めてしまうというものです。もちろん、警察などもやってくるのですが、基本的には不法占拠であったとしても「そこで生活しているという実態」があれば、警察権力でも即座に追い出すことができないし、追い出そうとしても、Barcelonaの歴史的背景という「アナーキー(無政府状態)」の伝統があるらしく、周りの住人も警察権力の邪魔をして,結果として不法占拠状態が続いていくのだそうです。
      そういうビルは大家も市などの行政もとくに慌てて動く事情がない限りは、取りあえず住み着いた人たちはそのまま住んでいてしまうし、小さなカフェや店なども経営する…ということになっています。フランス系の彼女は、高い家賃を払うためだけに働いているようなパリの生活を捨てて、不法占拠ビルに住むことで稼ぎをダンスのレッスンに振り向けるという、きっちりとした人生設計のもとにバルセロナに渡ってきた人でした。

      日本人舞踏家は私を入れて三名、スイス人の舞踏家一名で、舞踏討論会が催されました。いくつかの大学や研究機関などが関わっていたようで、討論会はバルセロナのシアター関係の学校(Insitut del Theatre?)でした。最初に出された質問が「Butohと原爆の関係?!について」 というお定まりの誤った解釈に関わるものでした。日本で舞踏をしていたスイス人舞踏家が即座に否定し,私もそれについで明確に否定しました。1980年代に欧米で突然舞踏がブームとなった際、舞踏のことを知らないダンス評論家が推測で書いたものだとと指摘がなされているいわく付きの解釈でした。これについては、私も英語で書いた文章があります。
      Not "the Atomic bomb"... (Nov.,2006)

      Many dance critics prefer connecting Butoh with the Atomic bomb, but as far as I have studied Hijikata's books, there were no descriptions found about the atomic bombs. His writings show, I believe, that he was not a political person but a dominating dancer and artist talented also in writing. There is only one thing that shows a relationship of Butoh and atomic bombs: A movie titled "Atomic bomb and navel" directed by a Japanese photographer Eiko Hosoe who published "Kamaitachi" photographic album of Hijikata. But, the content of the movie is very funny although the bomb exploded at the last scene. In the World War II, Tokyo was bombed out in an air-raid by three hundreds twenty five B29-bombers, and about 200,000 - 100,000 people were burned to death one night. It well matches the atomic bombs in Hiroshima and Nagasaki. Akiko Motofuji, Hijikata's wife who died in 2003, told me what happened in Tokyo at the night, but she did not mention to the atomic bombs in Hiroshima and Nagasaki. It is not the Atomic bomb for Japanese citizens, but they are (atomic) bombs. When dance critics use the phrase "the Atomic bomb" describing something about Butoh, it is , I believe, surely an easy rhetorical expression that is nothing to do with Butoh itself. Butoh came from the hardship and poverty that Hijikata and the people of the rustic northeast prefectures had suffered historically. See ganimata or bandy-leg, and crooked back.
      (和訳:
      ダンス批評家の多くが舞踏と原子爆弾とを結びつけるのを好むが、私が土方の著書を調べた範囲では原子爆弾についての記述は見あたらなかった。彼の書き物から,土方が政治的な人間だったとは私は思えず、書き物にも才能のあった傑出したダンサーでアーチストだったと思う。舞踏と原子爆弾とを結びつける唯一のものは、「原爆とへそ」というタイトルの映画で、これは土方の写真集「鎌鼬かまいたち」を出版した写真家・細江栄公が監督をした作品である。しかし、映画そのものは,最後のシーンで原爆が爆発する以外はかなり愉快な内容である。第二次大戦中、東京は325機のB29爆撃機によって爆撃を受け、20万人から10万人の人々が一晩で焼き殺された。これは広島・長崎の原爆にほぼ匹敵する。元藤Y子、土方夫人で2003年に死去、がその晩に東京で起きたことを私に語ってくれたのだが、広島・長崎の原爆のことにふれることはなかった。日本の市民にとっては、それは「原爆というもの」ではなく、あれらの「(二発の)原爆」である。ダンス批評家が舞踏について何かを述べようとして「原爆」というフレーズを用いるとき、それは、私には、安易なレトリックに思える。舞踏は、土方や東北諸県の田舎の人々が歴史的に経てきた辛苦と貧困から出てきた。(そうした点から)がに股や猫背を見よ。)

      趣旨は,土方巽の書き物の中に原爆について書いたものはほとんどないこと。原爆は写真家の細江栄公による映画「へそと原爆」という滑稽な映画の最後のシーンに出てくるだけであること。土方巽夫人の元藤Y子は、20-10万人が一晩で焼き殺された東京大空襲(325機のB29爆撃機による)についてふれているが、話の中に原爆のことは全然出てこなかったことから、少なくとも原爆…ということを中心にしてものを考えていたという形跡は見あたらないこと。(なお、竹内実花は、舞踏の白塗りは東京大空襲で焼き殺された人たちの魂を弔う気持ちで行っているという元藤Y子の発言を聞いています。)

      なお、欧米のダンス批評家が、戦後始まった舞踏と日本を敗戦へと導いた原爆を象徴的に結びつけているようだけれども、被爆当時「新型爆弾が落ちた」としか知らない日本人が積極的に「原爆」を持ち出す状況にもないという歴史的状況からも明らかに奇妙な感じが残ります。これについては、Oxford Brookes大学で舞踏の博士論文を書いているPaolaが、その誤った解釈を1984年頃に最初にしたダンス評論家をほとんど特定している文章を見つけ出しました。日本の人が書いた2000年の論文です (Kurihara Nanako, 'The Words of Butoh' in TDR: The Drama Review, Vol 44, n 1, Spring 2000, pp. 10-28) (11/25,2009付け)。したがって、散見する「Butohと原爆の関係」という理解は,1984頃のダンス評論からの孫引きや引用や転用などによって増幅されたと考えられます。
      なお、その後の討論は、実に愉快なことに…特に聴衆は楽しんだようですが…四人の舞踏家がそれぞれに異なった立場や見解をもっており、実に多岐にわたっていて統一的な見解がない…ということが明確になったのでした。これは実はよくあることで、舞踏家・遠藤公義は「舞踏という川にいる様々に異なる魚…」というたとえ話を使うくらい、現時点では舞踏の定義やアプローチが極めて多様になって居る現状を示すものです。1980年代までは舞踏家といえば日本人だったのが、1990年代から2000年以降は日本人ではない舞踏家の中にも優れた人たちが出てきたことから、実質的に舞踏が国際化し世界が拡大化していったためといえます。そういう点からも、東洋西洋を問わず共通する舞踏における、たとえば身体心理的な真実ということがますます重要になってきたと考えています。


      舞踏ワークショップの方は順調に進んでいきました。印象的だったのは、普通のモダンダンスやコンテンポラリーダンス、バレエに混じって、ベリーダンサーの人が数名入っていたことでした。妙に身体のバランスが良く、身体も気持ちあまり揺れ動かない不思議な人たちでしたが、そういう人たちが、強烈に腰と振り胸を突き出してセクシーに踊るのだと知りました…。それなりに舞踏レッスンを味わってくれたようですが、それを彼女たちの身体心理的なあり方にどのように結びつけていくのか…そのあたりは現時点では謎のままです。少し真似をして笑われたので、私自身の動きは女性性からはほど遠くまるで届かないようでした(^_^;。元々、明治・大正の「エロ・グロ・ナンセンス」という正統的民衆芸能が存在したわけですが、そのあたりからの流れについて私はやや弱いと自身感じています。

      舞踏ウォーキングの一つに極めてゆっくりと進んでいくものがいくつかありますが、その一つの歩き方で進んでいた人の中に、「涙が出てきました…」という人がいました。そのレッスンは、日本国内でもそうですが、感受性の豊かな人の中に、そのように涙が出てくる人がいるものでした。何というか…穏やかに静かに歩んで進んでいく歩みの豊かさというか…。ひっそりとした中に深い味わいを感じる能力というか…。
      なお、五日間、三時間という集中的なワークショップに参加した20名ほどの参加者達…。全体的に極めて良い・深い・広がりのある体験をしていたといえます。途中で、ある男性参加者が,深まっていく感覚の中で自分を支えられなくなり、不安な顔つきで質問をしてきたことがありました。それほどまでに誠実に身心の深みへ進んでいたという事実はともかく、「どうやって自分を守ったらよいか分からない」というのが主訴でした。実は,私のワークショップでは「自分を身心ともに傷つけないこと。他人もまた身心ともに傷つけないこと。自分を守ること」を基本としています。

      「壺療法」という心理療法の一アプローチがあり、「フタを開けて中から何かが出てきて…最後に中に戻ってもらい,フタをする」というたとえ話で心の問題を扱うという枠組みをもっているアプローチです。これと同様に、舞踏の稽古も、日常ではない何かと遭遇するわけですが,その後にはやはり何らかの形で日常の世界へと戻ってくる必要があります。そうした話を伝えたところ,自分なりに得心がいったようでその後は,身心の世界の探検を自分なりにコントロールしながら味わっていってくれました。ワーク後に、恋人だという参加者と一緒にやってきて手紙を渡してくれました。キラキラとした純真な子供のような目をしていました。

      なお、参加していたダンスセラピストの数名と話をしたときに出た話で、ある子供の病棟でホスピタル・クラウンを導入したという話題がでました。慢性疾患や死につながるような病気が多いので鎮痛剤などの薬が処方されるのですが、クラウンさんが来てからは投薬量が少なくて済む…という経済的利点がはっきりしたので…という実際的な理由からでした。

      バルセロナでは、舞踏ワークショップを指導するそれ自体の意味と同時に、スペインそしてバルセロナという土地の歴史・風土・人情の中で様々に強烈な事柄にふれることになりました。これは後で私の舞踏そのもののあり方にも影響してきていますが、それについては後日…ということします。それは…生きろ ということにつながっています。

  1. Rotterdamでの舞踏ワークショップ (11/20-21, 2009)

    • 8月のトルコで実施された「オーセンティック・ムーブメント集中体験」の際、オランダからの参加者(ダンスセラピスト)から、オランダ・ロッテルダムでのワークショップ実施を打診されていました。また、9月のECArTE(ヨーロッパ・アーツスセラピーズ・コンソーシアム)に参加していたオランダ・アムステルダム在住のダンスセラピスト達からも打診を受けていました。それと同時に、ずいぶん以前の教え子の一人で、オランダ女性と結婚してオランダで健康保険が適応となる正式のマッサージ資格登録をしたTamura君に会って身体心理システムについての情報交換をしたいという個人的事情もあり、そうした所用も含めてオランダを訪問しました。Tamura君はすでに数年のインターン修業年限を経てプロの指圧師として仕事しており、身体的事実と向き会おうとする誠実な態度に感心しました。(かなり細かな技術的やりとりをしましたがそれは割愛します(^_~;)

      *なお、たまたまTamura君と一緒に会ったオランダ在住の日本人女性の口から「タケウチトシハル…」という名前が出てきて驚きました。日本にいたときに何度か会って影響を受けたといいます。2009年9月七日に亡くなられた竹内敏晴先生を偲んで、社会学者の見田宗介が新聞に寄せた弔文のコピーが手元にあったので(日本から送ってもらったもの),その方に渡しました。「ワークとは命を手渡すことだ」と語っていた竹内先生のことを思い出しながらコピーを渡したところ、その方は読まずに大事そうに二つに手折って鞄にしまいました…。

      オランダは小さな国(1500万人程度?)ですが、ダンスセラピーなどの資格はECArTE会議でも分かったのですが、いろいろと整備が進められていて、いずれにしても日本の悲しい状況とは比較にならないのが実際のところです。二日間、10名程度の参加者に3-4名のダンスセラピストが参加してくれました。ワークの合間に仕事の内容や実際的な問題についてこちらから聞き取るという展開もありいろいろと勉強になりました。
      そのうちの一人は、脳血管障害や事故などで運動機能・感覚・言語機能を失った人たちを対象にしたセラピーの現場で働いてるというダンスセラピストで、確かに感覚が細やかで,身体的な感性もずいぶん優れている女性でした。こういう人ならば、微細な感覚の相違などに気がついていくのだろうな、と思える人でした。数は少ないのですが、そうした人があちこちに存在しているという事実は当たり前かもしれませんが、嬉しい発見でもありました。そして、そういう感性の豊かな人たちに舞踏ダンスメソドが高く評価される…というの事実がさらに有り難い支えとなりました。

      * Rotterdamでは2月にワークショップ実施が打診されているので、またあらためて書くことにします。


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visiting researcherとして下記にて研究しています。

(C/O) Professor Helen Payne,
303 Meridian House,32 The Common, Hatfield,
Herts AL10 0NZ, UK

School of Psychology,
University of Hertfordshire, UK


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