- オーセンティック・ムーブメント集中体験(ケンブリッジ Buckden Towers)(12/2-7,2009)
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オーセンティック・ムーブメント(authentic movement)とは、目を閉じて感じるままに動く体験をしていくムーバー(mover)とそれを見守るウィットネス(witness:目撃という意味)の二者関係の中で行われる身体心理療法的な構成・構造・アプローチ・セラピーを言います。この基本についてはすでに「オーセンティック・ムーブメント」トルコ編でふれたので、今回はそこであまりふれなかった点を中心に書いていくことにします。
ハートフォードシア大学があり、私が住んでいるHatfieldという所はロンドンから北に30分。そこからさらに北のケンブリッジ方面に電車とバスで2時間程度の所にあるバックデン・タワー(Buckden Towers)という古城が今回の会場でした。季節はすでに12月なので、寒々とした写真を探したのですがないので夏版を載せていますが…。いつも曇っていて冷たい雨が時々降るこの時期のイギリスなので、季節性感情障害 SAD(Seasonal Affective Disorder)になるのは仕方がないと…。少しでも陽が射すとありがたく,そのため夏にはいつも肌を日にさらすので皮膚ガンの発生率がヨーロッパ諸国でもかなり高い…。なるほどと思えるのでした。
私は研究室のヘレン・ペイン先生(ワークショップ主催者・指導者)が「一緒に車で行きましょう」と言ってくれたので、カウンセラーでダンスセラピストの中年の先生と一緒に車に乗せてもらったので楽ちんでした。ただし、途中で会話に花を咲かせるヘレン先生は話すたびに助手席の私の目を直視したがるので,高速運転の最中は危なくて危なくてハラハラし通しでした。私は人の目を見るのが得意ではないので目を合わせないでいると、ヘレン先生は私の目を見ようとしていつまでもこちらを見ている…という悪循環も一因でした。少し反省…。文化差だし個人的な習性だし仕方ないのですがねえ。
続きです…。
12月の寒々としたこの時期に、 古城にこもって(retreat:隠遁・修養会) 朝から晩までみっちりとオーセンティック・ムーブメント体験をしに来るのはどういう人たちなのか、少し説明します。一つはカウンセラーの人たちが自分自身の研修のために来ている場合、これをCPD(Continuous Professional Development)といい、日本の臨床心理士などが一定の研修ポイントを要求されているのに近いものです。だいたい中年以上の参加者がそれになります。それと、もう一つがダンスセラピストあるいはオーセンティック・ムーブメント指導者としての単位と修了要件となっている場合とがあります。20-30代あたりは主に後者の修士ないし博士課程の人で、今回は半々くらいの構成でした。いずれにしても、広い意味での職業的ないし専門的な関心から参加していることになります。ヘレン先生の車に同乗してきた中年の素敵な女性はカウンセラーですが、個人対個人では難しい場合に、ダンスセラピーやオーセンティック・ムーブメントを用いた集団療法を取り入れることが効果的だと話してくれました。
参加定員は記載されていないのですが、今回の参加者8名というのが 車座に座って丁寧に進めるときの上限の人数 に近いと今回特に実感しました。これ以上人数が多いと深いグループ体験が難しいのです。8名の参加者にヘレン先生を入れて9名という人数です。それと何となく来るわけではなく、明確な理由と目的があってやってくるので参加者自身がそれなりに「濃い」ので、これ以上は指導する側としてもかなりきついかもしれません。
イギリス二名、トルコ二名、ドイツ一名、、ギリシャ一名、エストニア一名、日本一人(私)という構成でした。もちろん英語が共通語で全員ペラペラの英語力でした。その中で、やや困りがちなのがギリシャからの人で、それよりももう少し困りがちなのが日本からの一名(^_^;でした。もちろん,日常会話の話ではなく、オーセンティック・ムーブメントで体験した内容を英語で語り、あるいは自分がウィットネス(目撃)した人の行動や反応や状況を英語で的確に伝えるというレベルの英語力という意味です。英語に難がある私ですが、さすがに半年以上もイギリス暮らしをしてきた成果があったようで、それなりに良いやりとりができたので、グループの中での体験内容も体験の展開も随分深まったという実感がありました。生活も研究も英語もそれなりに頑張って来て良かったなあと…。ただし、イギリス人以外の参加者は全員二カ国語は話す…だけではなく、半数以上は三カ国語以上話せる人たちで…。
*英語での専門的な会話にしばしば困難を覚える私は,会話について実質的には聴覚障害者・言語障害者あるいは知的障害者と目されても仕方がないところです。そこそこの英語論文を書いている私ですが、残念ながら会話については、そうした悲しい状況におかれます。(海外諸都市30カ所ほどで舞踏のワークショップを指導してきているのですけれどもね)。日本からイギリスの大学に留学などをしている中高齢の研究者達も、英語の専門家は除いて、実質的に重複障害者の立場に立たされかねません。ただ、ありがたいことに、ロンドンなどの大都市には観光客を含めて非英語圏の人が多数いることと、ブロークンな英語や方言も多種多様に存在していることと個人主義思想のおかげで、社会的障害者ながらそれなりに通用しているのが面白いところです。
*このサイトに書かれている内容は、心理学・臨床心理学・身体心理療法・ダンスセラピーなどの関連の知識と経験を前提としており、そうした事柄についての基礎知識と経験がない状態では様々な誤解が起きる可能性があります。このサイトではそうした事態への対応は考えていませんので、個々人の自己責任でお読みください。
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オーセンティック・ムーブメントとは、 目を閉じて感じるままに動く…という形式の身体心理的アプローチをいいます。ユングに「能動的想像法 active imagination 」というアプローチがあります。これは白昼夢のように、起きた状態の中でまるで夢を見るように現実的ではない世界を体験していくものです。その能動的想像を単にイメージとしてではなく,実際の身体的な動きやあり方という事実として体験するもの…それがオーセンティック・ムーブメントという場といえるでしょう。ムーバーは体験する人、ウィットネスはそれを見守るカウンセラーないしセラピストという関係にあるといえます。
参考までに、ムーバー体験とウィットネス体験についてふれておきます。(現在形で三人称的に書いています。「…」は省略部分です。なお、ムーバーに与えられる時間は、1-2分の短いものから、10-15分と長いものまであり、それぞれ目的が異なっています。)
*以下は個人情報に関わる守秘義務のため脚色してあります。
ムーバーの語り
「ムーバーは、正座で座っていると…膝に突き立てた手と腕がひどく突っ張ってきて…じゅうたんに手が降りていった途端、指がじゅうたんと擦れて乾いたこする音が聞こえ…、それに魅せられてずーっと絨毯をこすり続けている。…ムーバーは急に、座っていた姿勢からふいに立ち上がるのは倒れたくなかったためで、地面に突っ立つ巨大な樹木のように突っ立つ…」
ウィットネスの語り
「ウィットネスはムーバーが次のようにするのを見ている…。すなわち、正座で座っていて、両手が膝頭にあり、両腕を突っ張った状態で座っている。ふと,手が絨毯におりていき、なで始める。擦れる音が聞こえる。…そしてムーバーが急に立ち上がるのを、ウィットネスは見る。」「ウィットネスは、ムーバーのこの立ち上がる動きを見て、『絶対に倒れないのだ』といった決意を感じる」
下線の部分が「解釈」の部分です。つまり、ムーバーの動きやあり方を見ていたウィットネスが感じた・思った・考えた・思い出した…部分にあたります。当然ですが、これは「解釈」「投影」であって、ムーバーが本当にそうだったかどうかは分からないけれども、ウィットネスとしてはそのような思いを体験したという事実の報告となっています。大事な点は、これがウィットネス側による「解釈」であり「投影」であることを明確にしていることです。
英語では In the presence of 何々、「何々という事柄があったので、(ウィットネスはこれこれと感じる・解釈する)」という言い方で伝えることになっていました。ちなみに『絶対に倒れないのだ』という決意を感じたウィットネスに後で詳しく聞いてみると、ウィットネスは、ナチスドイツのアウシュビッツ強制収容所で生き残ったビクトル・フランクル、例のロゴ・セラピーを創始したウィーンの精神科医の「態度価値」のことを思い出していたと言います。
このときのウィットネスの人はカウンセリングとその指導を長年してきたベテランの紳士(といっても,私と同じようにややスキンヘッド(^_^;v)で、そうした「解釈」なり「投影」なりが実に的確にムーパーの状態をとらえていたのです。そのため、そうした「解釈」を聞くことによって、ムーバーは自分自身が無意識のうちにしていた「スックと立ち上がる」という行為の意味の手がかりを得ることになりました。(ちなみに、セッションを行っていた古城の前後には数百年という巨木が数本、黒々と立ちそびえていました。ムーバーはこの巨木に魅入っていたという事実がありました。)
ウィットネスの見る力、読み取る力、そしてそういう力を支える経験や知識が幅・深さがこうした「解釈」「投影」に現れてくるわけです。オーセンティック・ムーブメントという形式がその真価を発揮するのは、a)ムーバーが自らの衝動なり思いなりに正直に従っていること、b)ウィットネスがそうした動きを的確に見て取り、その動きが指し示す世界を適切に感じとれる、この二つの事柄が両立している場合といえるでしょう。
これは実は極めて高い要求であって、普通の人は、何らかの事実と,その事実から自分が思ったこと・想像したことを分離できないものです。カウンセリングにしろコンサルタントにしろ、この二つを明確に分離する能力が基本的前提であり、さらにその上に、そうした行為やあり方の深い意味にたどり着けるだけの経験値・知識量が問われる訳です。
Helen Payne教授とBeckden Towersワークショップにて
いくつかの要点について
- グループ・ムーバーでの実習
一番最初は、七名がムーバーでヘレン先生とオーセンティック・ムーブメント資格取得の博士課程の人がウィットネスでした。まず参加者はムーバーとしての体験を行います。その後、二人のウィットネス(七人の行動を見ているセラピスト役)が、七人の個々の動きやあり方、あるいは関わりなどについて事実を述べ、また、必要に応じて「解釈」を伝えます。(この解釈については後でまた書きます)
ほとんどの参加者はオーセンティック・ムーブメントについての体験をしてきていますが、全員ムーバーという構成には、目を閉じて動くという基本的なあり方の実習という意味と同時に、参加者間の仲間意識を育てるという別の機能もあったと思います。なお、複数のムーパーが居ると時にはぶつかったりもするので、危険回避のために目を開けるとか各自の責任で行うことになっていました。
なお、二人のウィットネス役は車座に座ったままの位置なので、ムーバーは場合によってはどちらかのウィットネスの後ろに入り込むことで見えなくなるわけです。ヘレン先生はそうした行動・展開を状況によって許容しているのですが,この場合もそうなっていました。
- 体験を伝えるときの三人称的で現在形による言い方
たとえば数分間という時間を与えられたムーバーが,その時間の中で目を閉じて感じるままに動くという自分の体験を語ります。その際、「I am the mover who does...」というように、「私が何々をして…」というのではなくて、「私はムーバーとして何々をして」というように「三人称的に、かつ、現在形で語る」 という形式をとっていました。もちろん話しているうちに「私は…」という言い方になったり、「何々した」という過去形になったりもするわけですが、基本的には「三人称・現在形」で語ることが推奨されていました。
これには意外に深い意味が推測されます。すなわち、そのときにそういう体験をした私…という意味で、私の存在はそういうようにすでに外部化され客体化されているので、「今の・生きている・生の」 私自身ではないわけです。そうしたズレを「三人称化」することで取り込んでいるように感じられます。次に、語る際に現在形で話すのは、慣れないうちに妙な感じもなるし、聞いている方も何だか奇妙な感じにもなりますが、話している本人としては、現在形で話すことで逆に過去のことを今のことのようにして語ることができて、過去の体験にある種の現在進行的な生々しさが宿る感じが得られます。このあたりについてはもう少し考えてみる必要がありますが、印象的な点でした。なお、ウィットネスは「I am one who sees the (a) mover does ...」というように、目撃した自分をやはり客観化して表現するとともに、見た内容を現在形で語ることになっていました。
- 動きやあり方の事実を伝えることvs解釈を伝えること
今回はいわば指導者が二人いたことになり、ウィットネスとしての二人がムーバーについて語るときの「事実へのふれ方と解釈を伝えること」についていくつかの相違がありそれなりに興味深いものでした。
ヘレン先生は全体的に事実を中心に伝え、解釈的な部分はあまり多くないのに対して、博士課程にありオーセンティック・ムーブメント指導者資格を取得したばかりの人は、全体的に解釈・投影を伝える量が多かったといえます。そうした差そのものは特に気になりませんが、やはり経験値の差だと思いますが、後者の人の解釈がしばしばかなり牽強付会であったりするなどして、やや信頼性を損なうこともあり、難しいものだとしみじみ感じました。やはり修行をしていくということなのだと…。
"in the presence of what the mover does ..." 「ムーバーが何々をすることを目の前にして…」ウィットネスはかくかくしかじかと思った・感じたというように言います。あるいは明確に「ウィットネスは何々という解釈を抱く」という言い方もありましたが、in the presence of ...という表現が重視されていました。
- 見られていることについての実験的セッション
今回、ヘレン先生の発案で次のような実験的な試みが行われました。提案されたとき,メンバーは全員「えーっ?!」と露骨に疑問の声を上げたのです。「そういうのはオーセンティックではない!」と言って反対した人もいましたが、ヘレン先生の熱心な誘いで、渋々あるいは果敢にトライしてみたものです。後から思ったことですが、今回のように質の高い参加者(セラピスト歴やオーセンティック・ムーブメント歴の長い人)が揃っていたので是非試して見る気になったでしょう、きっと。
- ウィットネスの関心を引く・意識した動きをしてみる
いやあー、見られていることをあまりにも意識しすぎるので,私の場合は、親戚が訪ねてきたのですっかり興奮してしまった小学生の男の子…のようになりました。(北海道弁では「おだつ」と言いますね、きっと(^_^;)照れるというか何というか。
なお、ウィットネスが二人いて、そのうち二人はムーバーに語らない「サイレント・ウィットネス」という役割で見守る場合があります。そうしたときに、状況によっては「二人の人に見守られていて私は嬉しい・安心…」という感じ方をする場合と、「二人に見つめられ監視されてつらい」という感じ方をする場合など、逆方向に働く場合があります。
そういうこともあって、「見る・見られる」関係に、支配・被支配の歴史的経緯が色濃く残っている日本では、オーセンティック・ムーブメントの形式は難しいのでは…と私は考えています。しかし、今回のような実験的なやり方をする中で、そうした視線による支配・被支配関係と社会的な条件反射を。笑いの中で相対化する可能性もあると気がつきました。今後、考えてみたいテーマの一つです。
- ウィットネスと無関係なあり方をしてみる
いやあー参った,参った! 必死に無視しようとすればするほど、視線の罠に落ちていくのです。つまり「無視しよう」という意図そのものが見られていることをかえって強く意識化させる方向に働くためです。一種の二重拘束状態だと気がつきました。それと同時に、人間という種は、ある種の共生体ないし群生体としてお互いに本質的につながっているあり方をしている…と痛感させられました。
本当に関係を切ろうとして、セッションの会場のドアから外に出て行く…状況の人もいましたし。
なお、視線に恐怖を感じる傾向の人が人から見られないようにしようと、顔を日に焼いてひどく黒くなったため、かえってどこにいてもみんなに見られるの図…という矛盾。見ること・見られることとは、生物としての人間のかなり本質的な関係構造があると思うに至りました。
- それ以外のあり方をしてみる
これは、すでにオーセンティック・ムーブメントの体験をそれなりに積んでいるし、セラピー的な関係の場の経験があるメンバー達なので、あり方や動き方などにいつもとは違う方向性や展開を志すということで、それなりに新たな発見もできたりしました。実験的に試してみて、この三つ一組のレッスンは、その順序も含めて、参加者の体験レベルがある程度高く、バラツキが少ない状況であれば試してみる価値があると思いました。
- ムーバーとウィットネスとが始まる前に必ず目を合わせること
私もイギリス生活が半年を過ぎてきたので、お互いにアイコンタクとをすることに慣れてきたという事情がありました。目を見ていないとどうにも関係が進まないためです。そのこともあって、夏にトルコで行われたオーセンティック・ムーブメントの体験とはかなり違い、普通に相手の目を見るようになりました。
1-2分などの短い場合でも、まず、ムーバーとウィットネスは相手の目をきちんと見ています。そこにヘレン先生の鐘(仏壇にある例のカネ)がリーンとなり、ムーバーは静かに目を閉じてセッションが始まります。所定の時間になると、ヘレン先生がのんびりと三度鐘を鳴らして終了となり、ムーバーは目を開けます。ここでも、ムーバーとウィットネスとは互いに相手の目を見てから、移行時間(transition)に入ります。数分から10分程度の移行時間の中で、ムーバーは自分の体験を文字にしたり詩にしたり、絵を描いたりします。このあたりは芸術療法的な表出あるいは表現の時間となりますが、基本的には体験内容に限定されます。それと同時に、ウィットネスも自分が見てとった内容をその動きやあり方の細かな状況と同時に「解釈」も含めてノートに書き出します。
- ムービング・セッションからの移行(transition)
短い場合は1-2分間といった設定でムーバーは体験をします。その後、たとえば5分前後の移行時間をとります。トランジション(transition)と呼ぶ時間の間に、ムーバーは体験内容を文字にして書き起こしたり、絵を描いたり図にしたりなどします。そのため、あらかじめ、紙やクレヨンなどの画材を用意しています。トルコでのワークショップでは、クレヨンやサインペン、画用紙が潤沢にあったので何度も絵を描いてみました。もちろん,文字で書く方が良い場合もありますが、このあたりは芸術療法的な展開といえます。
ウィットネスも同じように、ムーバーの動きやあり方について文章にしたりメモにしたりあるいは絵にしたりします。ただ、尋ねられた場合には言葉で説明することになるので、文字にするのが普通のように思います。いずれにしても、オーセンティック・ムーブメントの体験は、意図的に行った部分もあるにしても、どこかに無意識のうちに動かされている部分が出てくるものです。ムーバーは特にそうした思わずしてしまったり、起きてしまったこと、ふいに感じたことなどに気がつくことが大事な要素になります。そうした意味で、トランジションの時間とはそれぞれ思い思いに,寝そべったり座っていたり立っていたりしながら、筆記したり描いたりする…という共同瞑想の時間というか、静かな振り返りの時間となっています。そうした時間そのものが随分貴重なものだったと思います。
静かに自分の体験を振り返る…。それを何らかの方法で表現すること。
- ムーバーの語りとウィットネスの語り
数分間(その都度、ヘレン先生が何分間で…という指示を出していました)、ムーバーは自分の体験内容を語ります。I am the mover who does ....という言葉を何回か繰り返しながら、語ります。その中で、自分の解釈についても、 In the presence of 何々、何々ということがあるのでこんな風に思う・感じる・思い出す…と話します。それをウィットネスは静かに聞いています。
所定の時間になるか、本人が語り終わると、次にウィットネスの語る番になりますが、ここで一つ、ムーバー側からの選択ポイントがあります。ウィットネス「…ウィットネスの話をあなたは聞きたいですか?」と訪ねるのです。ここでムーバーは「聞きたくありません」と答えても良いし、「話してください」と答えても良いのです。
普通は見てくれていたウィットネスが自分の動きやあり方をどう見てか知りたいものですし、どんな風に感じたか解釈も聞いてみたいので「はい,お願いします」となりますが、聞かないでよいという選択肢が用意されているのは重要なことだと思います。
ウィットネスの語りは,基本的にムーバーが語った内容に限定されています。したがって、実際に見た事柄であっても、ムーバーが触れなかった・語らなかった内容は話さないことになっています。これは、本人の世界を守るという機能があるので大事な点だといえます。ただし、「あなたがふれなかったことで実際に見たことについて、聞きたいですか」などのように、一応言い出しておいて、ムーバーに選択してもらう方法もあるし、ウィットネス側として伝えた方が良いと思い話してしまう…という場合もありました。多くの場合は、ムーバー本人が自分のあり方に没頭していて、自分のした内容のある部分を忘れてしまっていることがよく起きます。いわゆる,記憶の分離状態、すなわち、身心の状況の異なる場面で起きた事柄は思い出しづらい…ということがあるので、忘れていたことをウィットネスに話してもらうことが、自分の体験を全体として把握するに役立つこともありました。
- 再度のグループ・ムーバー体験と「グループ体験」
最初の頃に行ったグループ・ムーバー体験と同じ構造のものを終了間際のセッションに体験しました。七名がムーバーで、二名がウィットネスとなります。(ヘレン先生と博士課程でオーセンティック・ムーブメント資格取得者)
ただし、初回のとは異なり、最初は全員が車座に座っている状態から始まります。車座に座っていて、全員が両腕を広げて、大きな円を作りながら互いに目を見合わせます。 目を見てアイコンタクとがあると、ゆっくり目を閉じたり軽くうなづいたりして、全員とアイコンタクとをします。腕を下げて静かに座っている中でヘレン先生のリンが鳴り始まります。
円の中に出ていってムーパーになるかどうか、いつ動き始めてムーバーになるかは一任されていました。ただし、二人の指定ウィットネス(designated witness)ともう一人の三人は少なくともウィットネスとなっていること、という条件が付けられていました。そのため、場に入ってムーバーとして動きたくとも、ウィットネスが二人になってしまう場合は出て行けないわけです。
場に数名が出ていき、場合によってはムーバー同士が相手にふれたり関わったり一緒に動いたりしています(基本は閉眼で何か危なそうなときには見るように勧めてられていました)。私もあるタイミングで場に出ていき、それなりの体験をしたわけですが、目をつぶっているので実際に誰がどこでどのような展開になっているのかは、聞こえてくる音や他のムーバーが触れてくる手や足などで感じるしかありません。したがって、何がどうなっていたかは分からないまま、時間になります。
所定の移行時間(transition time)の後、ムーバーの語りが始まりますが、場に出ていった順序で語っていきます。それに対して、ウィットネスが語りをします。なお、ムーバー同士で触れていったり音を聞いたりするなど、ムーバーとしてウィットネス(目撃・体験した)場合には、ムーバー・ウィットネスとして語ることもできます。
そうした全体の流れと自分自身の閉眼時の体験とを重ね合わせながら感じていくと、どうもグループ全体としてある有機的な関係の中で、非常に象徴的な場面が造り上げられ展開していたのだと気がつきました。その詳細は省きますが、個人主義的な西欧文化の中ではあまり推奨されないというか、隠されている、ある集合的で全体的な世界…。 それが、個々人のムーバーといういわば個人的体験を前提として実現されているという意味で、人と人とのつながりという側面について、西洋文化の一部を補完する、あるいは活性化する作用があったのだと思い至りました。
- 別れの儀式と人とのつながり…
今回のワークショップは12月ということもあり、最終日の夜に、前回などのオーセンティック・ムーブメントのワークショップに参加した人たちなどにクリスマスカードを書く…というイベントがありました。前回のトルコのワークショップで知っている人には特に問題なく,自分の名前を書きますが、知らない人にはtoshi-whoと書いたりしながら、クリスマスカードに参加者全員でメッセージを書きます。イギリスだけではありませんが、カード屋さんやカード・コーナーがあちこちにあり、そうしたカードを書き送るという風習には根強いものを感じます。
ワークショップ終了後に全員で描いた幹と花と…(^_^;)
今回のメンバーとの間でも、本人以外の全員がメッセージを書いたクリスマスカードを封をして渡します。クリスマスに読んでね!ということです。こういうのは小学生か中学生くらいまでかなあ…という脳天気で非文化的な私は少々驚くわけですが、トルコの人たちは(スペインもそうですが)、しっかりと相手を抱きしめて頬を合わせて挨拶をし別れを惜しみます。挨拶と別れの儀式と…。社会的移動が盛んで人と人との交流・行き来が激しい、高移動社会だから…という感想ももちます。だから、しっかりと相手を見て、しっかりと見て取ったことを明確に言語化して相手に伝えることが重要だと…。
言語化しない「ハラの文化」らしいニホンとは、文化的な意味での「ガラパゴス」なのだという喩えもあり、土居健郎の「甘えの構造」も結局は、欧米の精神科医を含めて「?」という話を耳にします。ときたま小雨が降る曇り空の下、地震もなく台風もなく津波もないイギリスの、煉瓦造りの長屋風建物が連なる街並みを眺めながら、私は列車でゴトンゴトンと帰途に着きます。暖かいやりとりの余韻と、文化的断絶との合間に漂いながら…。
visiting researcherとして下記にて研究しています。
(C/O) Professor Helen Payne, 303 Meridian House,32 The Common, Hatfield, Herts AL10 0NZ, UK
School of Psychology, University of Hertfordshire, UK
(C)Toshiharu Kasai, 2009 All Rights Reserved.
無断転載をお断りいたします。
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