[紀要論文]

葛西俊治「身体心理療法」2009
〜イギリス通信〜

オーセンティック・ムーブメント集中体験 (トルコ)


    オーセンティック・ムーブメント集中体験 Authentic Movement Retreat (9/5, 2009)

  • トルコにおけるオーセンティック・ムーブメント・リトリート

    • この企画は、イギリスの大学の夏休みの最後に当たる期間にトルコのひなびた景勝地にて、心理臨床関係の専門家や関連の経験者を対象にオーセンティック・ムーブメントの集中体験をすることを目的としていました。そのため、9名の参加者(定員10名)でみっちりと体験と交流を深める場となりました。基本的には午前と午後に合計で4セッション程度、夕方にセミナーという構成で進みます。

       ここでは「オーセンティック・ムーブメント」という形式について体験や知識のなくても概略がつかめるように、逐一、進行内容と注意点やルールなどを、私の個人的感想を加えて解説していきます。個人的感想は、そうした体験を軸にして理解を進めてきた私自身のメモ書きとして理解していただければと思います。
       なお、全体的にみてペイン教授の「オーセンティック・ムーブメント」の形式は非常によく鍛えられた、しっかりした内容をもっています。「オーセンティック・ムーブメント」を体験しながら学習を進めていく形式として、パーソン・センタード・アプローチとの関係における理論的な位置づけも含めて充実した内容でした。

      *後でふれるように、今回のような専門家のトレーニング的ワークショップに見合わないような個人的問題を持ち込んでしまうような場合(私のことです(^_^;)は、ここに紹介している「グループにおけるオーセンティック・ムーブメント」の形式は必ずしも向いているとはいえません。その場合は、「セラピストとクライエント」という一対一の形式によるプライベート・セッションの方が適切といえます。そうしたズレが後に出てきますので、あらかじめ指摘しておきます。


    • オーセンティック・ムーブメントという形式

      オーセンティック・ムーブメントとは、ダンスムーブメントセラピーの実践の中で開発されてきたもので、自ら動いて身体的体験をする者「ムーバー mover」と、その人の動きや有様をずーっと見続けている者「ウィットネス witness」とから構成される関係形式です。いくつか異なる形式がありますが、今回のワークショップでは、基本的体験として「一人のムーバーを一人のウィットネスが見守り続ける」ものを、いくつかの準備的なバリエーションを加えて行いました。
       5-6分間程度の短時間から10-20分に及ぶ時間、ムーバーは目を閉じて、動いたり動かなかったりしながら自分の世界を体験し続け、それをウィットネスが見守り続けます。ペイン教授はゆったりと「リン(仏壇にあるチィーンと鳴る例の鐘です)」を三度鳴らして終了を告げます。続いて、「移行時間 transition time」を10分間程度とり、その間にムーバーは自分の体験を文字にしたり絵や図にしていきます。その間、ウィットネスもムーバーの動きやあり方や変化などについて、その内容を記述したり絵や図にしていきます。

       その後で、ムーバーが自分の体験内容を語り(書いた文章を読んだり、描いた絵や図を示したりすることもあります)、ウィットネスはその後で、明示された体験内容についてのみ、見たこと・感じたことなどをムーバーに伝える…という形式です。このやりとりの構成と方法と制約について、ペイン教授は極めて厳格な方式を採用していることが特徴的でした。その基本になっているのは、心理学的カウンセリングを立ち上げていったRogersのパーソン・センタード(person-centred)すなわち人間中心的アプローチであり、その立場からオーセンティック・ムーブメント体験を「安全」な体験過程とすることを主眼としていました。


      1. 「はじめる前に,ムーバーとウィットネスはまっすぐ相手の目を見て,目を合わせる」

         「ムーバー一人・ウィットネス一人」の状況では、両者ははじめる前に相手を目をしっかりと見て、ウィットネスは「自分が相手のことをずーっと見ています」と伝え、ムーバーは「あなたが見ていてくれるのですね」といったようにウィットネスと目を合わせます。
         目を直視することが文化的に必ずしも要請されていない日本と、アイコンタクトが関係の大前提となっている欧米での大きな違いといえます。この点は、目を直視するのにあまり慣れていない私はずいぶん戸惑いがありました。特に、私の感覚では、欧米人は「眼球を見ている」という印象が強いのに対して、日本では「心の窓である目を通じてその人を見ている」という感覚があるので、そうしたズレに気がつきました。
         いずれにしても、目を合わせること、アイコンタクトということは、関係性の重要な要素だとあらためて体感することになりました。日本で実施する場合は,このアイコンタクトをどのように考えて行っていったらよいのか、一つ課題が増えたといえます。

      2. 「ウィットネスは、ムーバーが語った内容についてのみ反応する」

         「ウィットネスは、ムーバーが語った内容についてのみ、反応する」という点について解説します。短時間であってもムーバーには様々なことが起き様々な体験をしています。その中で、ムーバーが実際に語ったことに限定して、ウィットネスは反応する」というのは、ロジャーズによるパーソン・センタードな心理的カウンセリングである「非指示的non-directive」アプローチという考え方に基づくものです。クライエントが気がついておらず、しかしセラピスト側が気がついているというズレがあるとき、セラピスト側は自らの専門家としての気づきに基づいてクライエントに指示をしたり説明をしたり…という関わりを「しない」という、あり方です。
         つまり、「クライエントが体験し語った世界に限定して、ウィットネスは語る」ことになります。そのため、ウィットネス側から見て重要な動きや変化があったとしても、ムーバー本人が語らないときにはそれにふれることはない、という制約の中に自らを置くことを意味します。
         これは想像するよりもかなり難しい制約で、ウィットネスとして見ていて,その中で気がついたことを話してしまいたくなるものですが、ペイン教授はこうした姿勢を節制とか禁欲を意味する「アブスティネント abstinent (または abstinence)」という言葉で表現していました。
         こうした姿勢については、下記の「肯定的変化をもたらすロジャーズによる六項目」の解説をご覧ください。

        パーソン・センタード(人間中心的)アプローチにおける
         → ロジャーズの「肯定的変化をもたらす六項目」(準備中)

      3. 「事実のみを語ること」と「感想を語ること」の明確な分離

         ムーバーは自分が体験してきた内容なので、その内容を話すときはそうした「事実」を語っています。また、そのときに「こんな風に感じた・思った」なども、自らの体験として語ることができます。それに対して、ウィットネスは、語る内容について次のように明確に分離して語ることを要請されています。
        なお、ムーバーもウィットネスも現在形で話すという基本ルールがありました。

        1. 「ウィットネスとして見たことの報告」
          私はムーバーが(かくかくしかじかの状況などで)何々しているのを目撃しています。
          "I see the mover do ...."

        2. 「ウィットネスとして、そのときに感じたことの報告」
          私はそうした目撃に際して、何々というように思いを持ちます。体験します。投影します。
          "In the presence of the mover (with a certain movement), I experience that ..."
          "As my interpretation, I have a thought that ..."
          "I have a projection that ..."

         ムーバーもウィットネスも、語るときにはすべて「現在形で語る」というなっていたため、過去のことを現在形で話すということから妙な感覚になり、いまだに慣れていませんが、そうした方式を徹底していました。
         これについてはまた後で調べてみますが、過去形にしてしまうと、過去の体験の記述はそうした事実に留まるよりも、「それについての解釈、思ったこと、思い出したこと…」といったように、どんどんと体験そのものからずれていく傾向があるため、それに対する歯止めの意味があると考えています。つまり、ウィットネス側からの一方的な「投影的解釈」を抑止する方法はこれはかなり有効だと感じました。そのため、「事実」と「投影的解釈」を分離する能力を育成する方法として、オーセンティック・ムーブメントという形式を取り入れるという可能性を感じています。

         ただし、この分離はセッションの最初のうちはかなり厳格に維持されていましたが、セッションが進むにつれて、こうした分離が徐々に曖昧になっていきました。すると、ムーバーが何何しているという事実の把握よりも、ウィットネス側の解釈とかイメージとかが「投影」される量が増えていきました。
         このあたりは、人は事実そのものよりも、そこから感じ取った「意味」や「イメージ」ということへと進んで行ってしまうのだなあ…としみじみ感じた次第です。

      4. ムーバーとウィットネスの関係の制約

         なお、「ムーバーからの語り」と「ウィットネスからの語り」は、ともに一回ずつという制約を徹底していました。つまり、ムーバーが自らの体験を語り、ウィットネスがそれに対して語るとそれでおしまい。それ以上、そうしたやりとりを深めるという流れは一切行いませんでした。
         これにより、ムーバーが体験した内容そのものから話が解釈の方向にどんどんと流れていくことを阻止できるように思いますが、それと同時に、二者のやりとりの深化は全く不可能になります。そのため、私自身の体験として、ムーバーとしての体験内容に対してウィットネス側から語られた「投影的内容」によっとひどく傷つくことが何度もありました。しかし、それを修復するためにウィットネスの話へ更に反応していくという機会は、今回のオーセンティック・ムーブメントのこの形式の中には全く含まれておらず、かなり葛藤を深めることになりました。
         また、セッションの外では休憩時間なども含めて、こうしたやりとりを再現したり深めたりすることも止められていました。これは、セッションの場面でのことを、その外の世界へと持ち出さないという意味では、とりあえずはウィットネス側の倫理的義務につながる要請だといえます。しかし、そうした制約のために、葛藤は自らの中だけで処理しなくてはならない状況に陥りました。
         なお、これはグループの中で起きた内容を個別に進展させたりせずに、「グループへと還元していく」という小集団アプローチの基本を重視しているためでもあります。これについては、以下の「複数ムーバー・複数ウィットネス」のところでふれます。

      5. 教育的な訓練方法としてのオーセンティック・ムーブメント

         このようにウィットネス側との関係が制約されていたことはかなりつらい体験でしたが、現実的な意味ではそうした葛藤を通じて、いわゆる「大人 adult(交流分析)」的な現実的自我機能)の育成には役立つこともあるといえます。
         また、誤解を避けるため、この問題からオーセンティック・ムーブメント形式全体を疑問視するのは早急に過ぎるので説明を加えておきます。というのは、私のムーバーに対してウィットネスの役割をしたのはワークショップの他の参加者であり、かならずしもウィットネス側として習熟していたわけではありませんでした。当たり前のことですが、いわばセラピスト側になるウィットネス役の人の力量、人の話を的確に把握し反応する能力が高いという保証はないので、これはこうした教育的体験的ワークショップにつきものの問題というべきでしょう。
         
         オーセンティック・ムーブメントのこうした形式を練習として試してみることもあると思いますが、ウィットネスの力量が伴っていない場合は、不適切なウィットネスの発言によって、ムーバー側は間違いなく否定的な体験をすることになります。そうした悲劇に陥らないためには、ロジャーズによるパーソン・センタード・アプローチの考え方を、あらためてきっちり勉強する必要を痛感します。

         「ムーバー1人に対してウィットネス1人」という基本的構成は、オーセンティック・ムーブメントという形式を体験的に学習する場面として効果的といえます。また、パーソン・センタードな心理療法の考え方をどのように実際に写しているのかを体験的に理解する場面としてもかなり重要だといえます。
         なお、そうした「一対一」の関係を見守っている、経験豊かなスーパーバイザーの存在が極めて重要であることもあらためて明記しておきたいと思います。



    • 「複数ムーバーと複数ウィットネス」という形式

       体験時間の長さからいうと「複数のムーバーと複数のウィットネス」という形式がグループ的なセッション構成の中心になるといえます。9名の参加者とペイン教授の10名で、円形に座っていました(板敷きの部屋に座布団代わりのクッションを敷いて座っていました)。その中で、ペイン教授は、2人の資格訓練実習生の監督もあるため、全体のウィットネス役、次に、誰か1人を見続けるという「指定ウィットネス(designated witness)」をしてみたい人を募ります。1-2名くらいだと思います。これは後で、ムーバーの中から、この指定ウィットネスに見ていてもらいたい人を募り組み合わせを作ります。
       「沈黙のウィットネス(silent witness)」をしてみたい人を募ります。これはウィットネスをするのですが、その後の話し合いで一切発言をしないことになっているウィットネスで、ただ見ているだけ…です。これも居たり居なかったりといった程度です。そして、ムーバーとして動きたい人、ウィットネスをしたい人をそれぞれ募ります。リンが一度チーンと鳴りセッションが始まります。ムーバーは、たとえぱ10-15分というあらかじめ決められた時間、いつ座布団から出て動き始めてもよいことになっています。その間、(指定ウィットネス以外の) ウィットネスはどのムーバーをどのタイミングでどの程度見ているか自由となっています。
       なお、ムーバーの語りが終わった後、ウィットネスからの発言が可能となりますが、「そのウィットネスの発言を聞きたいかどうか」は、逐一、ペイン教授が確認をしています。ムーバーが聞きたいと言えばそのウィットネスは発言を許されますが、ムーバーが「もういいです」と言えば、ウィットネスは発言することができません。

        いくつか印象的なことがありましたので書いておきます。

      • ウィットネスは壁から離れていて円形に座っているので、ムーバーはウィットネスの後ろ側に行けたこと。

         これについてペイン教授に後で尋ねてみました。すると、ウィットネスが自分の後ろに空間を設けることで、ムーバーはウィットネスの目の届かないところに行けること、特に、見られたくないときとか、見られたくない動きとか、見てほしくないとき…そういうときに、目の届かない空間があるということがウィットネスの安心感・安全感につながる…という説明でした。
         この考え方とやり方は実はそれほど一般的ではなく、ペイン教授はその方が良いと思うのでそうしていると言うお話でした。

      • ウィットネスは自分の最初の居場所から移動したり動いたりしないこと。

         ムーバーは目をつぶって動いたり歩いたり横たわったり、自由にしています。そのため、場合によってはウィットネスに触れたりぶつかったりする可能性もありますが、よほどのことでもない限り、基本的に「動いてはいけません」というのがペイン教授の考え方でした。
         今回のワークショップとは別な機会ですが、私がウィットネスをしてイスに座っていたとき、ムーバーが床を転がりながらどんどんこちらに迫ってくるので、イスをずらして何度も居場所を移動したことがありました。これは後でペイン教授に指摘されたことがありました。そのときには、「決して動いてはいけません」という方式は知らなかったのでした。

      • ムーバーは、他のムーバーやウィットネスや家具などにぶつからないように、適宜、半眼にして確認すること。

         これには私は反対の立場ですが、それはそれとしてペイン教授の考え方では、ムーバーが自分や周りの人に対して自己責任をとって動くことという立場でした。特に、複数ムーバーの場合には、衝突したり手や足が誰かにふれたりぶつかったりする可能性が高まります。しかし、すでに書いたようにウィットネスは一切反応せずに座り続けているという前提があるので、危険回避はムーバーの自己責任という考え方といえます。
         なお、なぜ私が半眼に反対かというと、内的な深い体験や意識レベルの深まった状況では半眼を維持するという意識状態そのものが極めて難しいからです。これは実際的な体験に基づくものです。実際、今回のあるセッションで、私はかなり深い状態に降り立っていき、「半眼で危険回避するように」といったような知的な判断ができる意識状態から離脱していました。そのため、結果的にウィットネスにぶつかりそうになるということがありました。なお、私自身はこれまでの舞踏歴から身体感覚的に全く問題ない距離だと感覚しておりましたが、すでに書いたように、そうした事実を後になっても伝える機会はありませんでした。
         
        *この体験から逆に「視覚や手や指ではく,普通は使わない身体の部分によって世界を感じ取ること」という幸運な体験につながりました。詳細はこちらをご覧下さい。↓
         
         [身体による世界の分節化と自己確認としての「身分け」について](準備中)
         
         こうした事実から逆に、(今回の、グループという場面構成による) オーセンティック・ムーブメントが対象とする体験領域や心理臨床的な意味での対象が逆にはっきり浮き彫りになってきました。もちろん、とりあえずはペイン教授の今回のグループ・アプローチについてです。ペイン教授の論文(p.163)にもあるように、「グループでのオーセンティック・ムーブメントは、自己指示的なself-direction(自らによる方向決定)なあり方を特に必要とするため」、「臨床レベルでのウツ、精神病理的、境界性、その他、自我境界の強くしないといけない人たち」には向いていないとされています。
         この記述をそのまま理解するのは容易ですが、よく考えてみると、現実機能と現実的適応能力としての「大人adult」的な自我機能が前提となっていると読めます。つまり、今回のグループによるオーセンティック・ムーブメントというアプローチは、心理臨床的な方法としてはかなりの制約のあるアプローチだと自認していることになります。

         集団精神療法(group psychotherapy)として精神科において用いられているグループ・セラピーがあります。I.Yalomによる実践的研究によるもので、すでに第五版に至り日本語を含めて世界各国の言語に翻訳されています。精神科領域ではおおむね統合失調症と診断された参加者が半分以上になることが多いものですが、そうした場面でのグループ・セラピーをどのように進めるかについてのバイブルといってよい本です。すでに書いたように、ペイン教授による今回のグループ・ワークショップは、広義での心理臨床群に該当する人や精神科領域の参加者を前提としていないという枠組みでのものとして把握しておく必要があります。


      • 「ムービング・ウィットネス」という展開

         複数のムーバーが場の中で動いたりしているため、たまに他のムーバーと接触することがあります。衝突とかはありませんが、軽くふれたり、あるいは触れたことから両者が互いに関わっていくといった展開もありました。基本的には「閉眼」なので、ムーバー自身は自分が誰に触れたのか,触れる関係があったのはそのときには分かりません。しかし、ムーバーの語りと複数のウィットネスの語りから、自分がムーバーとして動いていたときに誰に触れたのかが分かってきます。その場合、ムーバーでありながらも、自分が触れた別のムーバーの動きについての「体感的なウィットネス」という位置づけが発生します。これを「ムービング・ウィットネス」と呼んでいます。
         「閉眼での他者との出会い」という展開なので、自分一人で体験世界で動いているのとは質的に異なる体験が繰り広げられることになります。これは、構造的にも心理的にも明らかに別次元の展開となり、大きな気づきにつながることが多いと言えます。  
        *男女が混合した複数ムーバーの場合、そうした男女間の身体接触が閉眼で起きる可能性があります。そうしたテーマをを意図的に取り上げていないのならば、そうした接触をどのように考えて運用するのか…という問題があります。欧米でのダンスセラピーはほとんどが女性であり男性は不在といってもよいくらいなのであまり問題になっていませんが、日本ではあらためて考えておくべきテーマといえます。ちなみに、私自身の身体心理学的アプローチの体験から、いくつかの条件が整わない限り男女別で進めることを基本にしています。  

    • 長時間のムーバー体験の場合、自分にとって印象的だった部分のみを取り上げる。

       複数ムーバー・複数ウィットネスの状況では、すべての体験内容を話したりやりとりしていると時間がかかり過ぎるという実情があります。そのため、ムーバーは印象的で語りたい部分、これを「プールpool」と呼んで、その部分だけを話すように促されます。これはこれで了解できますが、ムーバー側からするといろいろと体験してきた一部だけを取り出す…ということは意外に難しいものです。また、自分にとって大事だと思える体験はその前の部分の体験から引き出されてくることもあるので、一部だけを取り出すという作業は語る側としての欲求不満にもつながりました。
       この点から考えると15-20分とかの「長時間」のムーバー体験は、とくに複数ムーバー・複数ウィットネスの状況ではかなり難しい方式だと感じました。

       
    • 「二重のコンテナー」という構造をもつオーセンティック・ムーブメント

      「コンテナー」という日本語は荷物運搬用の「容れ物」の意味ですが、英語では広い意味での「容れ物」です。オーセンティック・ムーブメントの第一の「容れ物」は、「ムーバーとウィットネス」という二者関係の中に、体験した内容や語った内容を「きちんと容れておく」「外に持ち出さない」というものです。これはムーバーの体験や語りについてプライバシーを維持するという倫理的な意味合いとともに、そうした二者の間で起きたこととして維持し、事後の第三者による介入から「二者関係の構造を守る」という働きもしています。
       もう一つの「コンテナー・容れ物」は、実は「グループそのもの」のことです。実際、「複数ムーバー・複数ウィットネス」形式でのオーセンティック・ムーブメントでは、一人のムーバーを何人かのウィットネスが見ている可能性があるわけです。そうした場合、複数の「ムーバー・ウィットネス」関係という枠組みでは足りず、「グループ全体として、そこで起きた体験内容や語りをグループ全体のものとして維持し守る」という構造が確かに必要になります。そうした「グループ」という意識が二つ目の「容れ物」となるわけです。
       
       「ムーバー一人・ウィットネス一人」の構成では、はじめる前に相手の目をしっかりと見る…ということを書きました。複数ムーバー・複数ウィットネスの状況では、車座に座っている全員が一度、両腕をひろげて全員で空間を円くかたどります。そうしながら、全員で一人一人と目を合わせていき、他のメンバー全員と目があったら静かに腕を下ろします。全員の腕が下がったら、ペイン教授はリンを鳴らしセッションがスタートしていきます。このようにして、「グループでセッションを進めている」ことを、両腕を広げて空間を確認することと、全員とアイコンタクとすることによって実現しようとしていました。
         
       これに関係して、欧米圏でグループワークを行った場合、日本で行うのとはかなり異なる特徴的なことがあります。それは、小さな事柄でもみんなでいろいろと議論して決めていく過程がはっきりしていることです。実際、会場のエアコンのオン・オフと窓の開閉について議論がありました。暑いのでエアコンはつけておきたいのですがずーっと付けていると冷え切ってしまうこと、また、エアコンの音が邪魔で小さな声が聞き取りづらいこと、という問題がありました。さらに、部屋の空気に敏感で頻繁に窓の開閉をするメンバーがおりました。(ちなみに,トルコでは宗教的な理由から、一日に五回、沐浴をすることになっていて、シャワーに何となく入る程度の欧米人とは衛生観念がずいぶん異なるようでした。)
       こうした場合、日本では何となく気がついた人が気がついたように行動して、特にグループ全体としてのルールとか方法とかを明確に話し合って決める…ということは少ない傾向にあります。しかし、今回のワークショップでは何かのタイミングでこうしたことについて明確に意見を出し合って決めていきます。それぞれ意見を述べて最大公約数的に「こういうときにはこうしましょう」と決めていきます。
       実はこうした過程そのものが、グループとしての凝集性(心理的な仲間意識やまとまり)を作り上げていきます。問題があればあるほど、そのことを話し合っていく中でグループとしてのまとまりが培われていく…という展開になります。これは,アウンの呼吸で物事が進みがちな日本的進行とは異なるのでずいぶん参考になりました。「グループというもう一つの枠組み」の中にメンバー全員で居るということは、文化的宗教的その他様々に異なる参加者からなる場合、当たり前のことですが、何となく実現することではなく努力して造り上げることなのだ…と痛感した次第です。
         
       

    (C)Toshiharu Kasai 2009 無断転載を禁じます。


    visiting researcherとして下記にて研究しています。

    (C/O) Professor Helen Payne,
    Meridian House,32 The Common,Hatfield,
    Herts AL10 0NZ, UK
    School for Social, Community and Health Studies,
    University of Hertfordshire, UK


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