「心理学ワールド」第42号,pp21-31,2008掲載

   「小特集 統計的検定の哲学」


平均値は分かったけれど…。
―母集団無記のお話―

葛西 俊治

(元・札幌学院大学心理学部臨床心理学科教授)

 講義に出ている臨床心理学科の三年生の学生50名(男女半数)に「自分は他人に対して協力的かどうか」を尋ねてみた。五件法―「5:とても協力的」から「1:全く違う」による結果の平均値を計算すると全体で4.00,男性は3.50,女性は4.50だったとする。 (なお、五件法などによる数値1-5は順序尺度なので、平均値をとってよいのかどうかという本質的な問題があるが、因子分析などでは特に断りもなく行われているという慣習に従う。) この50名についてそうした平均値だったことは事実そのものである。しかし、そのグループについての平均値を知りたいということではなく、そのグループによって代表される、ある大きな集団―これを母集団と呼ぶ―について、平均値がどのようになっているかを知りたいとき、この50名について分かった平均値に基づいて推測を行うことになる。学科の三年生は本当は100人(男女半数)もいるので100人全員を調べられれば良いけれども、選択科目なので履修している50名にのみ尋ねたといった事情がある。また、男女間で差があるかどうかについても、実際に調べた50名についてだけではなく、100名いる学科の三年生全員についても「男性は3.50,女性は4.50」といったような差があるのかどうかを判断したい。こうした場面で「二つのグループの間の平均値の差の検定」(t検定)を用いることは、心理学研究法などの講義ではお馴染みの展開である。統計学が苦手であるらしい我が学科の学生はこのあたりから頭痛心痛へと至る。しかし、統計学はすでに厳密な学問として確立されているので―神はサイコロを振らないというアインシュタインの言葉はともかくとして―、我々は統計学の一般ユーザーとして、様々な統計ソフトを誤りなく使用することができると良い。さて、男女各25名の学生のデータから「二つのグループの間の平均値の差の検定」を行うと有意水準5%で「有意」だったとする。
 (男女の数値の分布が同じ形の場合と、分布のどちらかが平べったかったり尖っていて異なる場合では二つの分布の重なり方が異なるため、多くの統計ソフトは分布形状の異同判定のため、男女の数値の分散が同じと推計して良いか否かの検定を組み込んでいる。) 調べた男女各25名の50名については平均値上の差があることは事実として分かっていたから、「二つのグループの間の平均値の差の検定」によって有意となったということは、学科の三年生100名という「母集団」についても「男女間では協力性について差がある」と言って良いことが統計的に示され、学科の三年生全体についてもやはり女子学生の方が協力的なのだなあ、と一件落着となる…。

 しかし、ここから奇妙な事態が始まる可能性がある。すなわち、「母集団は三年だけではなくて、一年生から四年生までの学科全体は含まないのですか。検定結果は学科全体についてのことではないですか」とか「日本全体の臨床心理学科の三年生全員が母集団なのではないですか」とか「本大学全体の三年生が母集団にはならないのですか」と問われると、慌てて「当学科の三年生しか調べてないのでそんなに拡大解釈はできません!」と断りつつも、背筋に冷たいものが走り始める…「三年生といっても、確かに留年生や途中編入学生などは年齢や社会経験も様々、それに他学科や他学部から入ったばかりの移行生もいる」ことに気がつくと、<学科>という枠や<三年生>という枠の中にいる個々人に<学科>や<三年生>という文字表記以外の同一性が本当にあるのかと不安に襲われるためである。つまり、何が実質的な母集団であるのかを明確に把握しようとした途端、その母集団の一部として取り出されたグループそのものの位置づけ自体も急に危ういものになってしまうのである。なお、言葉と実態の間の本質的な断絶を指摘した一般意味論は、この状態を「地図は現地ではない Map is not territory」と比喩的に言い表し、アリストテレス的な認識である同一律「AはAである」を乗り越えようとさえした。すなわち、男女の性差をみるという一見ありふれた観点でさえ、MTF (Male To Female)やFTM (Female To Male)というように性的同一性の移行を自認する個人の存在、両性具有や超男性YY・超女性XXXといったような遺伝子レベルにおける多様性に基づくならば、男女の性差による協力性の違いを調べようという二値的な発想そのものの貧困さが明らかとなる。
 
 さて、心理学の研究論文には、母集団とはどのようなグループや集団を指しているかを明記し、その母集団の性質を明確にするためにその標本となるグループについて調べるという研究と、母集団については一切の説明や記述をしない研究とが存在する。後者のように母集団についてふれない立場を筆者は「母集団無記」を呼んでいる。かつてお釈迦様は「あの世はあるのかないのか、地獄や極楽はどうなのか」といった質問には答えることなく沈黙を返されたという。「無記」とは、形而上学的な問題については判断を下さずそのように沈黙を守ることである。つまり、母集団無記の心理学的研究は母集団について沈黙を守ることによって、上に述べたような認識論的な困難に直面することを避けるとともに、拡大解釈的な母集団を暗示するという副次的でかつ大きな効果を得ることがある。時には研究結果の「一般化」とはこうした暗示に過ぎないことも少なくない。そうしてみると、統計学という厳密学が砂上の楼閣のように見えてくるのであるが、正確にはそうではない。実際は、流動し固定し尽くすことのない砂の動きに恐れをなした心理学が、砂上にそびえ立つ統計学という堅城に逃げ込んだと言い換えるべきであろう。「科学的」な心理学は統計学の力を借りて現在の地点までたどり着いたが、昨今の質的心理学的アプローチの展開とは、平均値や一般性という観点からは捉えきれない多様で個別的な心理的事象を研究テーマとする21世紀的な試みであるといえる。敢えて不安定な砂上へ進み出ようとする質的アプローチとは、「平均値をとらない」相補的な方法論として心理学研究の片翼となるものと考えている。

Profile ― 
かさい としはる
元・札幌学院大学心理学部臨床心理学科教授